当たり前に過ごす心地よさ──福岡「古民家 煉り」試泊記

福岡・宮若市に誕生した「古民家 煉り」は、1日わずか6組限定の温泉宿だ。心とカラダが休まる宿をリポートする。
当たり前に過ごす心地よさ──福岡「古民家 煉り」試泊記

いざ温泉郷へ

コロナ禍の呪縛が薄れ、そろそろ旅に出ようかという気分になっていたところに、気持ちを揺さぶられる温泉宿に訪れるチャンスが舞い込んだ。福岡空港から車で40分。山に囲まれた一昔前の美しい日本の風景を思い出させる福岡市宮若の地に、2021年7月、「古民家 煉(ね)り」が誕生した。宿泊客は1日6組限定で、「食と泊にこだわったラグジュアリーな天然温泉旅館」というコンセプトを掲げる。敷地面積5644坪の中にあるのは、6棟の天然温泉付き離れとレストラン「Soukatei」、「料匠 虎白」、「Buffet KOHAKU」のみ、という何とも贅沢な造りである。

訪れたのは日差しが暖かくなった4月。福岡空港からタクシーに乗り、福岡都市高速を使って県道21号に入り、宮若市小伏へ。脇田温泉口を左折したあたりからは一面緑色の景色へと変わる。きれいな水が流れる田んぼや畑を眺めながらしばらく道なりに進み、宮若温泉郷に入ると、「古民家 煉り」が見えてくる。車を降りると、あたりは手つかずの森や草木に囲まれている。門をくぐれば、“のどか”と呼ぶにふさわしい世界が広がり、ほんの数時間前まで自分がビル街にいたとは信じられないほどだ。母家(フロント)でチェックインを済ませ、1人2本のフリードリンクを選ぶと、部屋へ案内される。

部屋はすべてヴィラ形式で、6棟ある。部屋の名前は「乙野」「脇田」「湯原」「小伏」「竹原」「下」と名がつき、すべてが“離れ”だ。棟ごとに距離があるので、プライベートが完全に守られる。各棟の広さは15.58坪、掛け軸や家具の配置、風呂の形など、異なるところもあるが、基本的には間取りは似ている。1部屋の定員は2名のみ。家族で訪れたとしても、ゆったりと過ごしてほしいという配慮から定員以上の宿泊はできない。

三和土(たたき)に置かれたソファで寛ぎながら自然を愛でる。

大人の旅

私が泊まった部屋は「竹原」だ。扉を開けると、ふわりと漂う茶の香りが心地良い。玄関ポーチをあがり部屋に入ると、左にはロータイプのダブルサイズのベッドが2つ、正面にはこたつにもなる丸テーブルが置かれた居間があり、その右の1段下がった三和土(たたき)にはソファが置かれている。備えられた茶びつの中には、宮若の茶専門店「たちばな園」の「健康雑穀茶ふくとく茶」と「和紅茶」、そして熊本県「コーヒー焙煎研究所わたる」のティーバッグコーヒーが入っている。

ひと息つこうとコーヒーを淹れ、季節や月の行事に合わせて用意された「おむかえ菓子」を食べながら景色を眺めていると、不思議と心が穏やかになっていく。

興味をそそられたのが、2畳ほどの小部屋「納戸」だ。壁につけられた棚の前には座椅子がひとつ。ひとりで籠る部屋なんて必要なのか?と思ったが、座ってみるとこれが意外にもしっくりきて、何かに集中するにはもってこいの空間だ。ひとりになれる場所がある良さを強調したくなるとは、自分もずいぶん大人になったのだな、と気づく。

天然温泉の掛け流しで一日中湯が注がれる。

居間の奥はトイレ、洗面所兼脱衣所、浴室となっており、脱衣所も浴室も広々としている。アメニティは歯ブラシ、くし、髭剃りはもちろんのこと、ボディタオル、髪留めクリップ、コットン、スキンケアセットとひと通りが揃う。脱衣所には上質な素材のタオル類に寝巻き、外着にもなる作務衣と羽織、靴下が用意されている。日本を感じてほしいと、浴室のシャンプーとコンディショナーはあえてブランドものではなく、畳のいぐさの香りがするものを採用したところも好感が持てる。

こちらでの楽しみのメインともいえるのが温泉だ。泉質は無色無臭の療養泉、「単純弱放射能冷鉱泉」。これはラドンが含まれている温泉を総称したもので、筋肉や関節の痛み、胃腸機能の低下、アンチエイジングなどに効果が期待できるそうだ。湯温は43〜45度といったところか。湯かき棒で適温にし、ゆっくりとカラダを慣らして沈めていく。しっかりと熱が芯に伝わるのがわかる。時折、窓から風が入り、露天風呂のようで気持ちがいい。

「Soukatei」の畑では福岡の伝統野菜「勝男菜」をはじめ、野菜やハーブを育てている。

温泉で疲れをとった後はディナーの時間だ。1日6組という少ない客数でありながら、「Soukatei」「料匠 虎白」「Buffet KOHAKU」というタイプの異なるレストランが3つあり、自由に選べるのも人気の所以だろう。今回、ディナーに選んだ「Soukatei」は、『ミシュランガイド福岡2019』で一つ星を獲得した「颯香亭」である。移転を機に店名を欧文に変え、宮若温泉郷内にてテナントレストランして再出発した。オーナーシェフの金丸建博さんは地産地消にこだわり、自家製の発酵調味料やさまざまな調理法で九州食材の可能性を広げた珠玉のフランス料理を提供している。

3つのレストランはそれぞれ独立した場所にある。「Soukatei」は金丸さんの修業先である南仏風の建物で、テーマは「土」「石」「鉄」だ。食事の前にマダムの金丸八重子さんに建物内を案内してもらう。中へ入ると、DRCを筆頭に世界各地のビオや日本のワインを収めたセラーがあり、奥には杏やうど、紫にんじん、カカオなど、20種類ほどの自家製発酵食材が棚に並んでいる。宮若の発酵文化を継承するために作り始めたそうだ。奥へ進むとショップとバーがあり、そのさらに奥に自家菜園がある。スタッフ全員で育てた野菜やハーブを料理の一部に使っているそうだ。

名産の米「にこまる」で作ったクリームと大根を、熟成発酵させた宮若レモンの皮を生地にしたクレープで巻いた皿など、地元食材をふんだんに使ったアミューズ。

いよいよダイニングへと思いきや、「アミューズはこちらで」とバーに案内される。訊けば個室仕様のテーブル席、カウンター、テラスなど、どこでも希望する場所で食事ができるという。また、メニューもない。予約時に好みの食材や料理などを聞き、シェフが九州食材を使って“世界にひとつだけの私好みのフルコース”を提供する。調理法は、アナログ(=発酵や薪など自然の調理法)とデジタル(=フリーズドライや化学的なアプローチによる調理法)を融合したものだ。

アミューズのひとつ。オレガノとマジョラムのハーブオイルでグリーンの層を作り、真っ赤なトマトとイチゴ、モッツァレラチーズ、ホワイトカカオでコーティングした塩トマトのムース、米のスフレを組み合わせた。色も味わいも斬新な一皿。

奥行きが90cmはあろうかと思われる革張りのソファに座り、タブレットのドリンクメニュー(ドリンクだけはメニューがある)を見せてもらう。ノンアルコールのオリジナルドリンクだけでも、「自家製の発酵食材をベースにしたもの」「茶をベースにしたもの」「薬草茶をベースにしたもの」が12種類記載されている。さらに煎茶、紅茶、コーヒー、ハーブティー、ジュースもそれぞれ数種類ずつある。今回はペアリング(アルコール1万5000円、ノンアルコール1万円)にした。その日に収穫された食材を多用するシェフの料理と合わせるのはさぞかし大変だろうと訊くと、「いわばライブ感覚です。時に寄り添い、時に味を足して五味を完成させたりと、化学反応を愉しみます。ソムリエ泣かせですが、最高のペアリングになった時の感動はかけがえのないもの」と話す。

赤と白の玉葱に花ものせ、玉葱を主役にした皿。ソースはアゲマキガイの出汁にフロマージュブランとレモンを合わせ泡状にした。玉葱の香りと食感、そして甘みを存分に愉しめる。

アミューズが終わったところでテーブル席へ移動する。自家菜園を眺める個室は、扉や壁、椅子に木材を使い、クラシックスタイルの真っ白なテーブルクロス、ショープレートは宮若「野乃窯」の石板と、料理にリンクする空間になっている。

犬鳴川に自生するクレソンを変幻自在にアレンジ。花と若葉はそのまま使い、太くなった茎は檜の香りを真空調理器で浸透させた。大きめの葉はピューレ状にして生地を作り、シガレットクッキーやソースにして皿を彩る。

薪火料理も金丸さんの料理に欠かせない。

金丸さんは、16歳で洋食店のアルバイトをはじめ、「天皇の料理番」で知られる秋山徳蔵の著書を読み、フランス料理に興味を持った。「南フランスに行きたい!」と25歳で渡仏し、ひたすらレストランに手紙を送り、自力で職を得た。4年間、南仏を中心に修業し、パリの「オーボンナクイユ」「プチ・ニソワ」でシェフの座に就く。2004年に「颯香亭」をオープン。ゲストの好みに合わせた“オートクチュール料理”で人気を博し、ミシュラン星付き店となる。2021年、より自然と生産者に近づけるこちらへ移転した。

「天草の鰆 葱の花 そら豆」は皿の美しさとエストラゴンの香りに圧倒される。

本日のコースはアミューズ6品、前菜4品、魚、肉、野菜料理がそれぞれ1品ずつ、デザート2品にミニャルディーズ。品数が多いのに胃疲れしない。

「料匠 虎白」のエントランス

翌日の朝食は「料匠 虎白」にした。こちらも福岡・宮若産を中心に、九州の食材を使った懐石料理で評判の店だ。店にはいると大きな厨房が目に飛び込んできた。羽釜で炊くごはんや、炭火の香りに食欲が刺激される。料理長、池本明弘さんのこだわりは出汁だという。削りたての鰹節の香りと旨味を、宮若の山から湧き出る水で引き出す。他では味わえない奥行きのあるテイストに驚く。

大川の組子や京焼など、洗練された器に目を奪われる。

朝食のラインアップは自家製豆腐、宮若の野菜サラダ、煮物、焼物など。どれもホッとする優しい味わい。この日の味噌汁は、伊勢海老の出汁を使っているそうで、朝からリッチな気分にさせられる。「炊きたてのごはん」も素晴らしい。粒が大きめで揃っており、食味がいい。艶もしっかりあって美しい。品種を訊くと、宮若の安河内農園「にこまる」とのこと。食べ慣れたスタンダードなメニューが並ぶからこそ、その良さが肺腑に染みた。

チェックアウトを済ませ、帰路につく。ここには華やかな飲食店街はもちろん、最新のエンターテインメントもない。外は鳥の声や風の音が鳴り響き、室内は穏やかな空気の匂いが包み込む。温泉に浸かり、美味しい食事をし、心とカラダを休める──。当たり前のことを高解像度で楽しめる幸せを噛みしめた。次に訪れるときは、どの季節になるだろう。四季の変化もまた楽しみである。

古民家 煉り

住:福岡県宮若市乙野667-3
TEL:0949-52-6380

https://kominka-neri.com

Miyawaka Soukatei

住:福岡県宮若市乙野666-2
TEL:0949-52-6795

https://info-soukatei.com/

文・髙橋綾子 写真・佐藤潮 編集・岩田桂視(GQ)