始まりは、たったふたりだった
Vol. 1では「サスエ前田魚店」店主・前田尚毅と静岡の料理人のユニークな関係性についてお伝えした。彼らのなかで、最初に静岡まで来る価値を作った店は、志村剛生(たけお)の「てんぷら成生」。2007年の開業以前、志村が焼津の割烹で修業していた時から、前田は彼に目をかけていた。
前田:当時、チャラかったんですよ〜。チャラいという言葉は必要で。
志村:どうしてもチャラいと書かせたい(笑)
前田:でも、その頃から鮨も勉強しなきゃと昼休みに鮨屋に教わりに行くような男でした。自分の休みを潰してまで学ぶ料理人が地元にはいなくて、立ち振る舞いでいけると思いました。根性が凄いんです。剛情っぱりで生まれると書いて剛生ですから。マムシの剛生。
志村:僕は家が料理屋でもないし、調理師学校にも行っていないし、スタートが24歳と無茶苦茶遅かったから。
前田:彼と始めて15年ですけど、こういうことを目指してやってきました。しばらくは周りも、あいつら何やってるんだという感じでしたが。純粋に、来るお客さんを地元食材で喜ばせたかった。静岡でも県外の魚を出す店が多くて、悔しいじゃないですか。地のものでいく。地元のものが常に100点じゃなくても、それが自然のライブ感。漁師さん、魚屋、料理人の関係を密にして、お互いをフォローし合い、点と点を繋げて総合力で攻める。
志村:県外の食材を試したこともあったんですけど、地元には敵わないとよく分かった。それでもう静岡にしぼって、地元食材をもっとよくするならこうしたらいいんじゃないかって話し合いが、今日まで続いています。
転機は2010年に起こる。
前田:彼のクルマのダッシュボードに赤いガイドブック(ミシュランガイド)が置いてあったんですよ。で、休みの日にこういう店行ってきましたと言ってくる。
志村:こんなの要らねえよ!って、駐車場に本をぶん投げられました。
前田:なんだこの高い店はと思って。でも、食べに行ってこうだったとか、あんまりしつこく言うんで、ミシュランガイドに載る店の仕入れがどんなもんか、付き合いのあったマグロ問屋さんに築地を案内してもらったんです。その時に築地一の目利きと言われていたマグロ屋さんに、魚に取り組む自分の姿勢や知識がどこまで通用するか話を聞いてもらったら、「築地でこういう話をする人はいないよ、なんでそこまで出来るの?」と。そしたらたまたま仕入れに来ていたお鮨屋さんが横にいて、「いまの話をもう1回聞かせてくれ」と言うんです。それが「鮨よしたけ」の親方。その出会いをきっかけに、初めて県外に魚を送るようになりました。
銀座の店に赴き親方の鮨を食べた前田は、その鮨に合わせた“冷やし”と“脱水”をほどこした魚を提供。1年後、「鮨よしたけ」はミシュラン初登場でいきなり3ツ星をとった。
前田:正直、自分は3ツ星の価値が分からないくらい田舎でやってたんですが。
志村:本、ぶん投げてましたからね。
前田:そのあと、親方に静岡でおすすめの店を聞かれて、「成生」を提案したんです。「俺、てんぷらにうるさいよ」って言うけど、連れていきました。実際食べたら3ツ星とった人が、「東京来たら3ツ星だよ」と言ってくれた。自分たちがやっていることは間違ってないと、自信が確信になりました。いまと比べたら当時の自分の仕事はとても恥ずかしくて見られないんですけどね、その言葉がきっかけでもっと精度を上げようと、狙っていくところが決まったんです。
志村:そこからいろんな人が来てくれました。シェフや料理関係の人たちが一気に動き出して、毎日、相当なプレッシャーでしたね。
前田:食べていければいいや、とは別で、お互いに全国からお客さんを呼びたいという考えになると、仕事に対する姿勢がまるで違ってくる。全国への窓口は1軒でよかった。1軒から広がっていけばと考えていたところ、来たのがこの3匹の子豚ですよ。
2008年に東京の修業先から杉山(温石)が焼津に戻り、2015年に志村が推薦した井上(シンプルズ)が加入。2018年には藤岡(日本料理 FUJI)が入った。藤岡はひとりでローカルガストロノミーを模索し、和歌山の「ヴィラ・アイーダ」や宮崎の「きたうら善漁。」と交流を重ねていた頃、「シンプルズ」のカウンターで前田に出会う。
志村:心強いですよ。刺激のある料理人が来てくれて、いまは静岡をなんとかしたいって気持ちが集まっている。
前田:いまこのタイミングでしか入らない魚が地元にはあって、彼らにはそこを徹底的にやるぞって。前は県外からのお客は成生に行って日帰りで帰っていたのが、いまは1泊して2軒ってコースが組めます。
はるばる県外から来るのなら期待値も上がるが、志村はこう言う。
「ギリギリを攻め切らないと喜んでもらえない。でも、尚毅さんの魚がいつも僕らを助けてくれる」
夜な夜な会を重ねてさらなる高みへ
漁師、魚屋、料理人のバトンリレーを最善で繋ぐには、作戦会議も欠かせない。サスエ組でいう閉店後の“夜な夜な会”だ。それは4軒それぞれの開業以来、ずっと続けている魚の研究会。前田は「てんぷら成生」へは毎晩のように通った時期もあったし、いまもすべての店に月2〜3回は訪れている。
シグネチャーとなるひと皿をともに詰めることもあれば、新しい魚をもち込んで試すことも。何通りもある夜な夜な会の話は彼らに聞こう。
「ずっと静岡の魚を食べている人だから、昆布出汁が少し強いとか火入れの温度が2度高いとか、微かな違いもすぐに分かって、何も隠せない。迷って料理を出すと、“これ、迷ったら(だろ)”とすぐバレます。夜行くからこれやってみろと朝に魚を渡されて、チャレンジする日もあります。お客さんに出す時は素材のおかげで美味しいと言ってもらえるけど、尚毅さんの場合はそれ以上が求められる。料理人にはない目からウロコな意見も出てきます。それをみんな繰り返しているから、常に勉強をしている状態。そういう環境も、僕らにとって強みです」(藤岡・日本料理 FUJI)
「いい鰹が入ると必ず食べに来ます。昔、赤ワインと鰹が合わないとある人に言われたのがたまらなく頭にきたみたいで、いつかギャフンと言わせると思い続けているようです。それで、尚毅さんは普段お酒を飲まないんですけど、鰹の個体ごとに合わせるワインは必ずチェックします。僕が今日の鰹はファーストインパクトがこうで油分がこうだからと選びの理由を説明して、試して納得する。いつも最善を尽くして仕立ててくれるんですけど、お客さんの口に運ばれた時にイメージ通りか確認に来て、違うなら自分に落ち度があるはず、氷の量を変えようかとか、そこまで考えてくれるんです」(井上・シンプルズ)
「昔、自分が美味しいと思っても、地元でそれを認めてくれる人が少なくて、手応えを感じられないことがありました。でも唯一、尚毅さんだけが、“これうめえな”と言ってくれて、その言葉を信じていた。僕が旨いと思うものと尚毅さんが旨いと思うものが噛み合っているから、他が何を言おうがこれは旨いんだと折れずにいられました」(杉山・温石)
料理人もフリーランス。ひとり手探りのなかでもらえる言葉はどんなに心強いだろう。普通は人気がでればダメだしされることもなくなるが、サスエ組では結果を出さなければきっちり怒られる。追い込まれて発揮される力もある。
そんな夜な夜な会に、前田は自腹で足を運ぶ。
「身銭で食べに行かないとダメです。会社で伝票あげることはしない。あれらがよくしてくれるし、全部のコースじゃないんでね」
静岡をデンマークのように盛り上げたい
夜な夜な会が終わり、少しの仮眠をとっていると、すぐに漁師からの連絡で起きる。なぜ、そこまで出来るのか? 前田は次のように語る。
「大きい話になりますけど、デンマークみたいな感じを狙っているんです。noma1軒の誕生でデンマークが潤った。nomaのあとに続いたシェフたちも活躍して、2年前にはボキューズ・ドールで優勝したシェフも出てきています。1軒のレストランのおかげで一気に食を楽しむ土地に覚醒して、世界中から人を呼ぶまでになった。静岡もそうなる条件は揃っている。だから、もっと地元の料理人を増やしていきたい。住む人や静岡出身者はもちろん、各地から色んな人が来ても食事を楽しめる店が増えたら、地元食材が多く使われて、地域が潤うじゃないですか。若い漁師や料理人が育ち、公共事業も宿泊も、タクシーもお土産も、すべてが回っていく。食材が豊かで鮮度がいいからそこまでしなくても、とみんな思うかもしれないけど、だからこそ、その向こうが欲しい」
実はこの想いは、料理人の4人に今後について聞いた答えともリンクしていた。「静岡の店で働く価値を高めたい」「東京で修業した子が帰ってきたいと思われる場所にしたい」「都会にはないよさが僕らには絶対にあるからもっとアピールしたい」「静岡への移住者を増やしたい」
デンマークは大きな夢だが、その前にちょっと憧れていることがある。前田が店で小売の魚を捌きながら言った。
「静岡にミシュランがいつ来てもいいように、星をとれた時、みんなで乾杯する準備はできています(笑)」
駿河湾と富士山の絶景に背中を押される男は、どこまでも明るくパワフルだ。いまはひたすら今日ここでしか味わえないライブを作りだす毎日。特に12月から3月は駿河湾の食材が最高の時を迎え、腕がなる。
生き生きとした瞬間は積み重なるほど勢いを増し、チーム静岡を盛り上げていく。
「てんぷら成生」志村剛生編に続く
文・大石智子 写真・松川真介