根っからの反逆児──ゴダールのいない世界で

20世紀で最も重要な映画作家のひとりと称されるジャン=リュック・ゴダールが死去した。日本屈指のゴダール研究者、堀潤之が彼の功績を振り返る。(本誌12月号掲載)
根っからの反逆児──ゴダールのいない世界で
The Image Gate

2022年 9月13日、進行中と言われていた2本の映画の企画を残したまま、スイスでは合法化されている「自殺幇助」によって91歳でその生命を絶った映画監督のジャン=リュック・ゴダールは、生前にたびたび、自分の墓碑銘は「とんでもない(Au contraire)」にしてほしいと語っていた。通常「逆に」「それどころか」などと訳され、対立や留保を導入するために用いられるこの語句がゴダールの墓に刻まれるのは、鎌倉の円覚寺にある小津安二郎の墓に「無」の一文字が刻まれているのと同じくらい、ゴダールの作品と生きざまに相応しいことのように思われる。というのも、ゴダールは生涯にわたって、既存の映画文法に抗うだけでなく、映画製作のやり方それ自体にも反旗を翻し、ことあるごとに世間一般のものの見方に疑問を投げかけてきたからだ。

『気狂いピエロ』撮影中のゴダール。世界中の映画人に影響を与えたゴダールの死に際して、アラン・ドロンやブリジット・バルドー、レオス・カラックス、そしてハリウッドからも追悼の言葉が寄せられた。(Photo by Team-Press X / Ullstein Bild / Getty Images)

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記念すべき長篇第1作『勝手にしやがれ』(1960)が、ハリウッドの古典的映画に深く根ざしながらも、ジャンプ・カットやカメラ目線をはじめとする斬新かつ大胆な演出の数々によって、それを換骨奪胎するような摩訶不思議な作品に仕上がったことはよく知られている。ゴダールは後年、『勝手にしやがれ』ではハリウッドのフィルム・ノワールのようなものを撮ろうとしたのに、出来上がってみると『赤頭巾ちゃん』や『不思議の国のアリス』に近いものになっていたと述懐しており、そのように意図せずとも映画史の鬼っ子を生み出せてしまうところがゴダールの逆説的な強みである。彼は計算ずくで映画史の裏をかこうとする小賢しい演出家ではなく、常識にとらわれない探究を積み重ねていくうちに、前人未到のキマイラ的な産物を生み出してしまう、根っからの反逆児なのである。

ゴダールが『気狂いピエロ』(1965)を頂点とする60年代の作風に安住することなく、68年の五月革命以降は匿名的なジガ・ヴェルトフ集団を結成して政治映画の新たな形式を作り出し、70年代半ばには当時のニューメディアだったヴィデオによる実験に没頭し、さらに『勝手に逃げろ/人生』(1980)で35ミリの商業映画に復帰して以降も絶えず革新を続けることができたのは、自らの過去の実践も含めた既存のあり方の逆をつこうとする精神が骨の髄まで染み込んだものとしてつねに作動していたからにほかならない。老境を迎えてなお、『ゴダール・ソシアリスム』(2010)や『さらば、愛の言葉よ』(2014)においてデジタル映像や 3D技術を通常のやり方に抗って用いようとするところにも、反逆がどれほど彼の生来の気質だったのかを物語っている。

2010年11月30日、スイスのチューリヒで行われた「Swiss Federal Design Award Grand Prix」にて(Photo by The Image Gate/Getty Images)

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ゴダールの反逆は、作品の次元のみならず、映画の製作方法や上映の仕方にも及んだ。彼はつねに、撮影現場で監督が絶大な権限を握ることがどういうことなのかを気にかけていた。それゆえ彼は、ジガ・ヴェルトフ集団期に「民主的」な集団製作を試みて、あえてカオス的な現場を作り出したり(それが奇跡的なバランスで画面に定着したのが、1969年に作られた『東風』である)、スタッフや俳優を(彼らにとっては過分なことに)自らと対等な協力者とみなして煙たがられたりもした。また、特に晩年には通常の映画配給のあり方に疑問を呈し、『ゴダール・ソシアリスム』を一般公開はおろかカンヌ映画祭での上映にすら先立ってVOD(ヴィデオ・オン・デマンド)で配信したり、同作品に片言の英語による妙ちきりんな字幕をつけてフランス語を解さない観客を翻弄したり、遺作となった『イメージの本』(2018)を映画館ではない、ギャラリーや小劇場などのよりくつろいだ環境で特殊上映することに力を注いだりした。作品を取り巻く映画という制度それ自体にも、ゴダールは抗わずにはいないのである。

こうした清々しいほどの抵抗によって絶えず映画を賦活してきたゴダールが世を去ったのは、映画にとって計り知れない喪失である。これからはもはや、彼のように人騒がせなやり方で映画の常識に揺さぶりをかけ、映画の自明性の再考を促すような、才気煥発な道化めいた人物は現れないだろう。これからは、ゴダールの抵抗の精神を引き継ぎつつ、しかしゴダールという大いなる拠り所なしに、私たち自身が独力で、映画に何が可能なのか、映画がどのような新たな姿を取りうるのか、考え続けていかねばなるまい。ゴダールのいない世界で、映画をめぐる探究をどれほど先まで進めていけるのか、いまそれが問われている。ゴダールの死とともに映画も死んだなどと呟こうものなら、それこそ「とんでもない!」という声が墓の彼方から聞こえてくるはずだ。

堀 潤之(ほり じゅんじ)

関西大学文学部教授

1976年生まれ、東京都出身。専門は映画研究・表象文化論。著訳書に『映画論の冒険者たち』『ゴダール・映像・歴史』『越境の映画史』(いずれも共編)、『アンドレ・バザン研究』1–6号(共同編集)、バザン『オーソン・ウェルズ』、マノヴィッチ『ニューメディアの言語』、ランシエール『イメージの運命』、マッケイブ『ゴダール伝』など。