CELEBRITY / SCOOP

トム・クルーズが明かす、子ども時代の失読症や家庭内暴力から、俳優という仕事への愛まで【社会変化を率いるセレブたち】

『トップガン』シリーズ等で大成功を収め、名実ともに世界屈指の俳優として揺るぎない地位を確立したトム・クルーズ。待望の最新作『ミッション:インポッシブル:デッドレコニング PART ONE』(7月21日日本公開)のプロモーションで来日する彼が、成功を支える糧となった幼少期の体験とは。

7月3日オーストラリア・シドニーで開催された『ミッション:インポッシブル:デッドレコニング PART ONE』のプレミアイベントに出席したトム・クルーズ。Photo: Don Arnold / Getty Images

「私の子ども時代はとても孤独でした。失読症のおかげで学校ではバカにされ、いじめられていたからです。ですが、同時にそんな周囲の嘲笑を静かに受け入れることを学んできた私は、あの経験こそが現在の私のタフな内面を作り上げてくれたのだと感じています」

かつてアメリカの慈善団体「Dyslexic Advantage」にこう語ったトム・クルーズは、もはや細かな言及に必要などない世界屈指の俳優だ。『アウトサイダー』(1983)、『卒業白書』(1983)等で一躍トップ俳優として世界中に強烈なインパクトを与え、続く『トップガン』シリーズ、『ミッション/インポッシブル』シリーズ等で商業的成功を収めたハリウッドで最も稼ぐ俳優の一人でもある。さらに、ゴールデングローブ賞主演男優賞3回獲得、アカデミー賞3回ノミネートされている。さらに、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにその名を刻み、映画プロデューサーとしてその突出した才能で世界を魅了し続けてきた。

現在は誰もが羨む成功を手に入れた彼だが、少年時代は失読症に悩み、常にいじめと孤独感に苛まれてきたという。

機能的非識字の悩みを克服し、読書を楽しむに至るまでを支え続けた母

2004年1月、母メアリー・リー・サウスとともに第61回ゴールデン・グローブ賞に出席。Photo: Carlo Allegri / Getty Images

「読書に集中しようと思っても、ページの終わりまでいくと、読んだ本の記憶がほとんどなくなっている。するとそんな自分に呆れたり、不満を感じてイライラしたり。不安や緊張、退屈といったさまざまな感情で頭が真っ白になって怒り出すこともありました。だから、勉強していると、足や頭に痛みを感じていつも身体の不調を感じていたのです」

自身が悩まされてきた障がいのことを好んで“機能的非識字”と表現する彼は、高校時代には読解力のなさに常に悩まされ、俳優デビューしてからは、初期の数本の仕事に大きな支障をきたしたこともあった。特に19歳で初めて大役を獲得したときは、セリフが読めないことに悩み、人生最大の焦燥感に苛まれたという。

しかし、そんな彼に対しずっと惜しみない支援を続けたのは、教育者だった母だ。彼の潜在的な可能性を見抜き、常に「あなたには大きな可能性がある。だから決してあきらめないで!」と励ましてきた彼女は、ロン・ハバード考案の「スタディ・テクノロジー」と呼ばれるメソッドで、絵や図を駆使して読書力と複雑な概念の理解をサポートしながら、彼の集中力と読解力の向上に取り組み続けた。そして、ついに読書を楽しむまでに至ったのは1986年、彼が24歳のときに出演した『トップガン』が公開されたときだったという。

「私は、ただ一つ“気力”だけでここまでたどり着きました。自分を常に突き動かしてきたのは、経験と勘です。私は、この問題を克服しなければ、どこかで人生の罠にはまって自分自身が終わってしまうーそう感じていたのです」

名俳優“トム・クルーズ”が誕生するまで

『ミッション: インポッシブル』(1996)の劇中写真。Photo: Murray Close / Getty Images

1963年、NYシラキュースに電気技師だった父トーマスと特別教育教師だった母メアリーの間に生まれ、リアン、マリアン、カスという三姉妹とともに育った幼少期のクルーズを苦しめていたのは失語症だけではなかった。食べることにも困るほどの貧困に加え、暴力で家庭を支配する父親から日常的な虐待にあっていたからだ。そんな彼は、2020年のスポーツ紙の取材に対してこう語っている。

「父は、何か問題が起きるとすぐに蹴飛ばすような人でした。そして暴力を振るった後は、私たちを安心させようと優しく振る舞う。でもそれで油断すると、またすぐに暴力が始まる──その繰り返しでした。だからそんな父を見て、幼少期の私は“この人はどこかおかしい。だから決して信用してはいけない”と直感的に感じていたのです。そして、この経験は大人になってからも私にとって人間関係における大きな教訓となっています」

そんな父親を「いじめっ子、臆病者、混沌の商人」とさまざまな悪名で表現していたクルーズは、職を転々とする父親の影響で、幼少期は頻繁に転居を余儀なくされた。そのため、14年間で15もの学校に通うことになり、転校するたびに“失語症の新入り”としてクラスメイトたちから手痛い“洗礼”を受けるのが常であった。

しかし、クルーズが12歳になると両親は離婚。父が自身の人生から去ったことで、当時カナダで生活をしていた彼は母と三姉妹とともにアメリカに戻り、新生活をスタートした。その後クルーズは一時的にカトリック教会の奨学金を得ると、神父を目指してオハイオ州シンシナティの聖フランシス神学校に進学。しかし、わずか一年で退学してしまった理由を、神学校の神父は転居としているが、元同級生は飲酒がバレて退学を申し出たと語っており、どちらが真実かは定かではない。

2023年6月、イギリスにて。Photo: Anadolu Agency / Getty Images

その後、ニュージャージー州のグレンリッジ高校に進学した彼は、フットボールをはじめさまざまなスポーツに取り組んだ。しかし、スポーツに未来を見出すことはなく、同校で上演された演劇「ガイズ・アンド・ドールズ」に主演したことでついに人生の転機を迎えた。そして高校卒業後、俳優を目指してニューヨークに渡り、片っぱしからオーディションを受け続けたが、俳優業は台本を読んで憶える仕事だけに、常に失語症がその行く手を阻んだ。そんな彼はこの状況をカバーするために、こんな“トリック”を使ったという。

「とにかくなんでもいいからオーディションを受けに行き、台本をもらう。そのとき、監督やプロデューサーにキャラクターや映画の内容について詳しく話してもらうんです。そうやって彼らから得た情報をもとに、自分なりに頭の中でしっかりキャラクターを作り上げる。だから、今でも私はアドリブ演技が得意なのです」

そんな彼の地道な努力が実を結び始めたのは1981年、ハロルド・ベッカー監督映画『タップス』で初めてセリフのある役(デイヴィット・ショーン大尉役)を演じたときだった。その印象的で完璧な演技力はすぐに大御所フランシス・フォード・コッポラ監督らの目にとまり、その後の『アウトサイダー』等のヒット作への出演につながった。

世界的な成功を収め、同じ障がいに悩む人々の希望やロールモデルであり続けるクルーズ。そんな彼は、自身の成功の秘訣についてこう語った。

「私の人生には、常に集中力を持続させる訓練が必要でした。そして、読んだものを理解するために常に視覚に頼り、心象を作り出す方法を学びました。私は、今の自分の仕事を愛しています。そして、この仕事に大きな誇りをもっています。私は、中途半端なことはできない性格だから、やると決めたからにはとことんやる。そして、決して諦めない──それが、私のやり方なのです」

Text: Masami Yokoyama