経済圏を城塁で囲んだ北条「小田原城」はヨーロッパと同じ発想だ──世界とつながっている日本の城 第10回

北条氏の小田原城はなぜ難攻不落だったのか。

秀吉の侵攻を想定して

小田原城は2つの点で、きわめて特異な城だといえる。そのひとつは後北条氏(鎌倉幕府の執権の北条氏と区別するために、戦国大名の北条氏を「後北条氏」とよぶことが多い)の時代に、まるで西洋や中国の城塞都市のように町全体を防塁で囲い込んだことだ。

伊豆半島の韮山を本拠にしていた伊勢宗瑞、俗にいう北条早雲が小田原城を奪ったのは明応5年(1496)から文亀元年(1501)の間のこと。以来、北条5代、90年間にわたり、領土が関東一円に広がるにつれて小田原城の城域も拡大しつづけた。

北条氏が小田原を本拠にするのは、永正15年(1518)に家督が2代氏綱に譲られてからで、当初は東海道線および新幹線の線路を隔てた北側の丘陵(八幡山古郭)に城の中核があったが、遅くとも3代氏康の時代までには、江戸時代以降に本丸や二の丸が置かれた区域、つまり現在の小田原城址公園のエリアに中核が移ったようだ。

くだんの総構が築かれたのは、天正15年(1587)からだ。

織田信長の傘下には入った北条氏だったが、本能寺の変で信長が斃れると、豊臣秀吉との関係はぎくしゃくする。天正12年(1584)に徳川家康と信長の次男の織田信雄による反豊臣連合ができると、家康の娘婿だった5代氏直はその一翼を担うほかなくなり、小牧・長久手合戦をへて家康が秀吉と和解してからも、北条氏と秀吉の関係は修繕されなかった。その後、いくつかのボタンのかけ違いもあって、秀吉の軍勢に攻められる可能性が現実のものになると、城下全体を防塁で囲む総構えの構築がはじまった。

小峰御鐘ノ台大堀切は屈折させ、側面攻撃ができる横矢掛りが。

小田原の経済圏をすべて防塁で囲む

その規模は丘陵部から海岸線まで周囲約9キロにおよんだ。それは決して小さな防塁ではない。堀は上幅が20~30m、深さが10~15mで、その内側に土塁を構える壮大なものだった。堀の法面は急傾斜で、底は障子堀になっていたことが、発掘の結果わかっている。障子堀とは高さ2mほどの障壁(堀障子)をあえて掘り残し、堀底に落ちた敵の動きを封じるためのものだ。

しかし、なによりも画期的だったのは、小田原の経済圏をすべて防塁で囲み、保護しようという試みだ。

当時の小田原城は東日本最大の城で、小田原は東日本最大の都市だった。したがって、城下には食糧から兵器や武具までを扱う商人、日用品から武具までを制作する職人が多く住み、持久戦になるほど彼らの手を借りないわけにはいかなかった。もちろん防塁で囲まれれば、膨大な戦力もそのなかに滞留できるし、兵糧などを貯め置く場にも事欠かない。また、農産物を生産できる田畑も総構の内側に広がり、実際に秀吉の軍勢が包囲するにいたっては、多くの百姓たちも総構えのなかに避難したようだ。

ヨーロッパでは古代以来、町を城壁で囲むケースが非常に多かった。目的はいうまでもなく外敵から身を護るためだが、わざわざ都市全体を強固な城壁で守るのは、都市機能が不全に陥ることを防ぐためでもある。長安(現西安)をはじめとする中国の都市も、それに近い発想でつくられていた。

一方、島国であるために国境を超えて異民族が侵入する危険性が、ゼロとはいえないまでも低い日本では、城塞都市は発展しにくかった。それなのに北条氏の発想は、海外の事例を聞きおよんでいたかどうかわからないが、海外の城塞都市のそれと非常に近い。

堀と土塁が見事に残る小峰御鐘ノ台大堀切。

秀吉や家康も真似をした北条氏の独創性

ところで、北条氏は関東一円に支城網を張りめぐらせていた。北条氏の戦術は、小田原城だけでなく、鉢形城(埼玉県寄居町)や韮山城(静岡県伊豆の国市)を筆頭にこれらの支城でも籠城戦を繰り広げながら、豊臣方の軍勢を領内の奥深くにまで誘い込み、支城同士が連携して挟み撃ちにするというものだった。

そのためにおよそ3万5000と推定される軍勢を、小田原城を中心に各支城にも配備していたが、豊臣方の軍勢は予想をはるかに上回る22万にもおよぶ空前の大軍だった。天正18年(1590)3月29日、鉄壁の守りが施された山中城(静岡県三島市)がわずか半日の攻防で落城する。だが、これは山中城の問題ではなく、これほど圧倒的な軍勢で攻め寄せられれば、なすすべがないということのようだ。

小峰御鐘ノ台第堀切西堀もよく残る。

その後、北条方の防衛線は次々と破られ、小田原城は早々に包囲されてしまう。4月半ば以降は主要な支城の開城が相次ぎ、小田原城は孤立して、当初の目論見はすでについえていた。豊臣方は大軍であるだけに、食糧の維持や兵站線の確保に支障をきたすに違いない、というのが北条方の読みだったが、現実には、秀吉は本陣として石垣山に総石垣で天守まで建つ絢爛たる城を築き、そこに側室の淀殿のほか、千利休を呼んで茶会を開いたり、能役者や猿楽師まで呼び寄せたりしていた。天下統一を終えようとしている独裁者との力の差は、いかんともしがたかった。

こうして北条氏直は7月1日ごろに開城を決意し、7月5日に城を出て滝川雄利の陣所に入り、自分の命と引き換えに城兵を赦免してくれるように秀吉に嘆願した。結局、首謀者と目された4人、氏直の父で北条四代の氏政とその弟の氏照、ほかに重臣2人が切腹を命じられ、氏直は高野山に追放され、ここに戦国大名としての北条氏は滅亡した。

しかし、小田原城は開城したけれど、あくまでも無血開城で、秀吉は22万の大軍をもってしても、壮大で堅固な総構で囲まれた小田原城を攻め落とすことはできていない。そのため小田原合戦を機に、城下町全体を囲む総構を築こうとする武将が、天下人たる秀吉をはじめとして現れるようになった。

三の丸外郭新堀土塁の土塁と地下室の跡。

いまも圧倒的な存在感を示す総構えの堀と土塁

まず、小田原合戦の翌年の天正19年(1591)正月から、秀吉は京都の洛中を周囲23kmにわたって土塁と堀で取り囲む御土居を築きはじめている。政庁兼邸宅をすでに大坂城から京都の聚楽第に移していた秀吉が、その防御のために小田原城を参考に築いたことは、容易に想像がつく。続いて文禄3年(1594)には、大坂城にも一辺が2km、計8kmにおよぶ総構の堀を掘っている。

現に総構に囲まれた大坂城は難攻不落で、徳川家康は大坂冬の陣で20万の大軍をもって攻めても、城自体を落とすことはできなかった。だからこそ家康は、総構の破却を和議の条件にしたのだ。江戸城に総構が築かれたのも、それが敵に対してきわめて有効な障害物であることを熟知していたからにほかならない。

総構はほかにも岡山城や姫路城をはじめ、多くの城で採用される。だが、いずれもヨーロッパの城砦都市とくらべると決定的な違いがある。ヨーロッパでは都市を囲む外側の城壁を最も強固に構築するのに対し、日本の城の総構えは中枢部の堀や城壁よりも貧弱なのだ。それでも敵の侵攻を遅らせる効果は大きいだろうが、日本では、守るべきは、あくまでも中枢部だったことがわかる。異民族に攻められる危険性が低い日本では、都市を住人とともに守るという発想は育ちにくかった。

だからこそ、切羽詰まってのことであるにせよ、小田原城に周囲9kmもの総構を築いた北条氏の独創性は評価されていい。

小田原城の総構はいまも随所に残っている。とりわけ県立小田原高校の西側にあたる小峰御鐘ノ台周辺では、土塁や空堀を観察しやすい。

最初に三の丸外郭新堀土塁を訪れるといい。ここは総構を築きはじめる前に構築された小田原城の外郭で、土塁のほか曲輪がよく整備され、建物の下にあったと思われる地下室なども見ることができる。

そこから道路を挟んで北側の小峰御鐘ノ台大堀切東堀は、北条時代の様子がとてもよく確認できる。もともとは三の丸新堀の一部として、この丘陵部を守るために尾根を切断するように築かれ、総構ができるとそこに接続されたものだ。約280mにわたって堀底を散策できる。その途中には堀を屈折させ、側面から敵を攻撃できるようにした横矢掛りも見られる。いまは埋まっているが、ここも堀底に堀障子が設けられた障子堀だったことが、発掘調査によってわかっている。

その西側には東堀に並んで中堀、西堀が掘られ、あわせて3つの空堀が複雑に組み合わされていた。そのうち西堀は空堀と土塁がよく残り、その北端で総構の空堀と接続しているのを確認できる。そこから少し東の稲荷森では、急峻な斜面の下に総構の堀が地形に沿って大きく弧を描いている。この堀は、いまはわずかにしか残っていないが内側にも外側にも土塁が築かれていた。秀吉の軍勢が手も足も出せなかったのがよくわかる。

PROFILE

香原斗志(かはら・とし)

歴史評論家

早稲田大学で日本史を学ぶ。小学校高学年から歴史オタクで、中学からは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、近著「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。