進化が止まった時代に人の目はどこに向くか。その回答を「宇和島城」天守に見る──世界とつながっている日本の城 第13回

愛媛県・宇和島城は、動乱が落ち着いたころに築城され、今も残る貴重な現存天守だ。香原斗志が考察する。
宇和島城

現存天守

全国に現存する天守はわずかに12で、そのうち4つは四国にある。それらはいずれも一国一城令や武家諸法度、そして鎖国令が出されてから建てられたものだ。だから、四国に残った天守たちは、戦国末期からすさまじい勢いだった日本の築城技術の進化が止まり、海外からの影響も途絶えた時代を反映している。

宇和島城
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したがって、それを考察すると、「進化が抑えられるとなにが起きるのか」、あるいは、「海外に目を向けることができなくなると、社会や文化はどう変容するのか」といった問いへの回答も見えてくる。

寛文6年(1666)に完成した宇和島城天守も、大坂夏の陣からすでに半世紀、鎖国が完成してからも四半世紀がすぎ、外への目が閉じられた太平の世を反映している。

御殿のような唐破風の玄関。左の石垣上に犬走があるのがわかる。

多彩に装飾された天守

宇和島城の原型は築城の名手として知られる藤堂高虎が築いた。文禄4年(1595)、豊臣秀吉から伊予国宇和郡7万石をたまわった高虎は、板島丸串城(現宇和島城)を修築。海に面した標高80メートルほどの山上に本丸をはじめとする曲輪を設け、2辺は海、3辺は海水を引き入れた堀で囲んだ。高虎によるこの不等辺5角形の縄張りは、明治を迎えるまで大きく変わることはなかった。慶長6年(1601)までに城は完成し、同時に天守も完成したようだ。

ただし、このときの天守は、大きな一重の入母屋屋根に二重の望楼を載せた3重3階の望楼型で、外壁には下見板が張られ、3重目に廻縁がつく旧式だった。ところが、高虎は関ケ原合戦の戦功で、徳川家康から伊予の半国20万石を加増されると、居城を今治に移している。

その後、慶長13年(1608)に高虎は伊勢国津に移り、富田信高が宇和島10万石を拝領するが、富田氏は5年で改易になってしまう。そして、伊達政宗の長男の秀宗が宇和島10万石をあたえられ入城し、それから幕末まで9代にわたって、伊達家が宇和島の城主を務めた。また、このころから板島は宇和島と呼ばれるようになった。

そして二代宗利のとき、いまに残る天守が建てられた。高虎が建てた天守は古材を多く使っていたので予想外に早く老朽化したようで、幕府へは修理という名目で届けを出し、天守台もふくめて全面的に新築された。

新しい天守は1階平面が6間四方、2階が5間四方、3階が4間四方と少しずつ小さくなっている。外観は白漆喰による総塗籠だが、各階とも窓の上下に長押型がつく。富士見櫓をはじめとする江戸城の櫓とも似た意匠だが、長押に段差がつくなど、江戸城よりも装飾的なほどだ。

また装飾といえば、正面と背面は1重目の屋根に三角形の千鳥破風が2つ並び(2つ並んだものを比翼千鳥破風と呼ぶ)、2重目にも千鳥破風がつき、3重目は軒を弓型に迫り上げた軒唐破風で飾られている。両側面も、1重目が千鳥破風、2重目が向唐破風(屋根のうえに独立して置かれた唐破風)で飾られている。また、それぞれの破風は御殿建築と通じる懸魚(妻飾り)で飾られている。

こうしてバランスよく配された破風が、大きく反り上がった軒先と相まって羽ばたく鳥のように優美だが、それがこの天守の性格を物語っている。

本丸下の帯曲輪から天守を望む。

有事が意識されない時代の特徴

まず、宇和島城天守の破風の内側には、破風の間がない。屋根上に設けられた破風の内側には、壁面から外側に飛び出した出窓のような一種の屋根裏部屋があって、鉄砲で外の敵を射撃するための陣地とされるのがふつうだった。ところが宇和島城天守の破風はすべて、たんに外観を飾っているだけで、破風の構造が屋内に少しも反映されていない。3代将軍徳川家光の指示で寛永15年(1638)に完成した、江戸城の3代目天守の破風も同様だった。

また石落としがひとつもなく、壁面には鉄砲を撃つための狭間もまったくつけられていない。天守入り口も御殿のような唐破風つきの玄関で、天守は戦闘の際に最後に立てこもる場所だ、という切迫感は少しもない。

天守台の石垣が天守の外壁よりも大きくはみ出し、天守の周囲に幅1mほどの犬走りができているのも気になる。幕末の修理のとき、もとの天守台の石垣を崩さずに現在の整った切込みハギの石垣を積み足したため、もともとあった犬走りはさらに広くなったようだ。いずれにしても、天守の外壁に石落としがないばかりか、低い石垣のうえに人が歩けるスペースがあるのだから、防御の観点から見るとはなはだ心もとない。

もっとも、3重目の屋根にある軒唐破風の下、つまり3階の壁面のかなり上部には、火縄銃を撃ったときに煙を逃がすこと意識したのだろうか、排煙窓が設けられている。このように、有事のための設備がないわけではないが、全体としては、平と呼ばれる世が続き、有事に備える意識が薄らいでいるとしか思えない。

その一方で、バランスを意識した破風の配置や、凝った長押型など壁面の装飾、屋根の軒の反り方、徹底して左右対称の窓の配置など、美観を強調することにかけては抜かりがない。

戦闘らしい戦闘が起きなくなって久しく、万が一をイメージすることが難しくなった時代。それは同時に、城の新造が禁じられてあたらしい意匠が生まれにくい時代であり、海外との交流が断たれて視野が狭くなり、未知の発想に触れる機会が失われた時代でもあった。そうなれば、おのずと既存の意匠を磨きながら使いまわすしかなくなる。

そういう時代に新奇なものは生まれにくいが、洗練されたり、美しさが磨かれたりはする。宇和島城天守の美しさはそこにある。

香原斗志(かはら・とし)

歴史評論家。早稲田大学で日本史を学ぶ。小学校高学年から歴史オタクで、中学からは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、近著「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。