ジェームズ・ボンドの時計

007の新作映画がコロナ禍による何度かの延期を経て、ようやく公開された。ボンドの代名詞である時計はどうあるべきか?

普段は時計の話しかしない人たちが、スーツや靴、お酒などを語りだすようになったら「007」の季節が来た、とわかる。話題はまずダニエル・クレイグとボンド・ウーマン。そして小物の話になり、やがては時計の話題に落ち着く。「今回の007、ボンドが着けていた時計をどう思う?」。

原作者のイアン・フレミングは、諜報員であることを強調するため、ジェームズ・ボンドにあえてロレックスダイバーズウォッチを着けさせた。あえてパテックフィリップや薄いオーデマピゲを選ばなかったのは、実際に諜報機関で働いていたフレミングのリアルなセンスだろう。

老舗の仕立て屋であるギーブス&ホークスの社長は「スーツにダイバーズウォッチを合わせるなんて」と文句を言ったらしいが、今や、スーツにダイバーズウォッチを合わせるのは当たり前になった。これは、明らかにジェームズ・ボンドの〝功績〟だ。半世紀前の時計関係者は、まさか腕にダイバーズウォッチを巻いた俳優が、オメガの広告を飾るとは思わなかったに違いない。時計のあり方を変えた人物を挙げるなら、そのひとりは、間違いなくジェームズ・ボンドだろう。

ちなみに007のパロディ版ともいうべき「キングスマン」では、主人公が愛用するのはダイバーズウォッチではなく、ブレモンの革ベルト付きである。装いのプロトコルに従ったのは、キングスマンの事務所が、表向きはサヴィル・ロウの仕立て屋であるためか。

そんなボンドは、ダイバーズウォッチどころか、さらに変な時計も愛用した。服装の原理主義者たちは眉をひそめたに違いないが、壮大なフィクションに見え隠れする微妙な〝リアル〟さが、007の魅力であったように思う。ギミックを満載したデジタル時計は、いかにもスパイらしいものだったし、セイコーのクオーツクロノグラフも、イギリス軍との関係を想起させるものだった。余談をすると、世界初のアナログ式クオーツクロノグラフは、セイコーがイギリス軍に提供したもので
ある。ボンドの袖口から覗くリアルな時計は、彼が華やかなセレブリティではなく、イギリス軍の諜報員であることを感じさせるツールだった。

さて、最新のボンド・ウォッチである。製作したのはオメガで、ケースはチタン製、そして凝ったチタン製のブレスレットが付属している。1万5000ガウスもの耐磁性があるうえ、ショックを与えても狂いにくい「シーマスターダイバー 300M」は、歴代ボンド・ウォッチの中で、もっともスパイ向けではないか。ケースの素材に、質感の高いグレード5ではなく、実用的なグレード2チタンを使ったのもそれらしいし、ケースが薄くなったため、シャツの袖口を邪魔しないのもいい。正
直言うと、今までのボンド・ウォッチは、ディナージャケットに合わせるには厚すぎた。あくまで時計を見ただけでの印象だが、ボンドを演じるダニエル・クレイグに同じく、彼の相棒であるボンド・ウォッチもずいぶん成熟したように思う。

では、今後ボンド・ウォッチはどうなっていくのか。オメガがスポンサーであり続ける限り、ジェームズ・ボンドの腕には、最新の「シーマスター」がい続けるだろう。しかし、オメガがシーマス
ター 300Mベースで作り上げた本作以上のものを用意できるだろうか。それに薄くてスポーツウォッチ並みの性能を持つ時計が増えたことを思えば、これからのボンド・ウォッチは、ダイバーズウォッチではなく、いっそドレスウォッチでもいいのではないか。ボンドがドレスウォッチを着けてアクションシーンを演じても、もはやおかしいとは思わないし、新世代の007には、それぐらいの思い切りを期待したい。なにしろジェームズ・ボンドは時計のドレスコードを変えた男なのだから。

PROFILE

広田雅将(ひろた・まさゆき)

1974年、大阪府生まれ。時計ジャーナリスト。『クロノス日本版』編集長。大学卒業後、サラリーマンなどを経て2005年から現職に。国内外の時計専門誌・一般誌などに執筆多数。時計メーカーや販売店向けなどにも講演を数多く行う。ドイツの時計賞『ウォッチスターズ』審査員でもある。

Words 広田雅将 Masayuki Hirota / Illustration 室木おすし Osushi Muroki