伝統はいかに革新され、未来につながったか──寿司とフレンチの「旧いと新しい」【前編】

東京の寿司屋とフレンチの老舗──。どちらも深く古典に根ざしつつ、しかし、つねに新しい。名店の料理人が語る、変えてはいけないもの、変えたこと。看板メニューとともにご紹介。
㐂寿司 @人形町──江戸前寿司の矜持を守る花街の町寿司

移り変わりの激しい東京にあって、江戸の下町情緒が今なお残る町で、4代にわたって寿司屋の暖簾を守ってきた一族の心意気とは。

守る仕事と、変える仕事と

世にいう江戸前寿司が生まれたのは、江戸時代後期。文政年間のことといわれている。両国で開業した「與兵衛寿司」がその開祖、というのは周知の事実だろう。そして、昭和初期まで続いたこの店の流れを汲むのが、ここ、人形町「㐂寿司」。江戸前寿司伝統の技を今に伝える稀少な一軒だ。亡き先代の跡を継いで4年目を迎える4代目主人・油井一浩氏は次のように語る。

「曽祖父にあたる初代油井㐂太郎が、幼くして『與兵衛寿司』の支店に奉公に入り、10代で両国・薬研堀に店を構えたと聞いています。正確な年号はわかりませんが、明治も後期になってからだったようですね」

まさに志賀直哉の『小僧の神様』を彷彿とさせる時代に、屋台から始めたという。その後、祖父の貫一氏が暖簾分けの形で独立。当時、芳町と呼ばれていたこの地に創業したのは大正12年。関東大震災から間もない頃のことだ。

元は置屋だったという風格のある佇まい。この日本家屋に移ったのは、戦後になってからのこと。創業当時は、現在の斜向かいにあったそうだ。

下町情緒漂う人形町の街並みに、ひときわ目立つ日本家屋の一軒家。瓦屋根に金文字で書かれた「㐂寿司」の看板も情趣溢れる威風堂々とした佇まいには、真摯に時を積み重ねてきたものだけが持ちうる粛然とした風格が漂う。暖簾をくぐり、ガラガラと引き戸を開ければ、磨き込まれた木曽檜のカウンターが目に入る。奥には宮下と呼ばれるテーブル席や小上がりの座敷、そして付け場の奥に凛然と構える氷の冷蔵庫がこの店の歴史を静かに物語るよう。古き良き時代の町寿司の面影が、壁にずらりと並ぶ年季の入った木札の数々からも偲ばれる。

そんないぶし銀の輝きを見せるのは設えだけではない。穴子、コハダ、マグロに玉といった江戸前寿司定番の寿司だねをはじめ"手綱巻き"や"唐子づけ"といった、最近では滅多にお目にかからなくなった古い仕事も、ここではきちんと受け継がれている。

カウンター前のガラスのショーケースも昔ながらの町寿司の趣。当節流行の店では、とんと見かけなくなった光景だ。

中でも、見た目も艶やかな手綱巻きは、花街の寿司屋ならではの佳品といえるだろう。「花柳界華やかなりし頃は、お座敷への出前も多かったようで、その(出前用の)盛り込みの寿司をより煌びやかにするために考えられたのが、この手綱巻き。これが入るだけで場がパッと華やぐんですよ」とは一浩氏。具材は車海老、コハダに海老おぼろと、見た目に比べ実にシンプル。江戸前本流の寿司だねだけで作られたそれは、酸が軽く効いたコハダと海老との甘みのバランスも精妙。品の良い味わいだ。が、美味しさだけではない。その粋な美しさの中には、どこか江戸っ子の美意識さえ感じさせる。また同じ車海老でも、小ぶりの才巻き海老で握った細工寿司が"唐子づけ"。初代から受け継がれてきた古い仕事で、才巻き海老に海老おぼろをかませ、海老の尻尾がやや上向きになるように握ったその姿が、中国・唐の時代の子供の髪型に似ていることからこの名がついたという。

"手綱巻き" ¥2,500。巻き簾に薄い紙を敷き、茹で海老とコハダを交互に並べ、海老おぼろを乗せ、巻きこむ。海老の赤とコハダのシルバーブルーのコントラストも美しい。宮下と呼ばれるテーブル席に陣取り、一人前の盛り込みにプラスするのも一興。

もちろん、寿司だね一つ一つにも代々受け継がれてきた「㐂寿司」の流儀がある。その筆頭が、江戸前寿司の華であり、先代の隆一氏がこよなく愛した本マグロだろう。昨今は脂ののった大トロが好まれ、俗にいう"腹かみ一番"が最上とばかりに、一流店がこぞって買っていくが、それはここ半世紀ぐらいのこと。冷蔵技術が発達し、人々の嗜好が変わった戦後になってからの話だ。そう、元来、江戸前寿司でマグロといえば赤身が主役。それゆえ「㐂寿司」では、今も昔も一貫して背ナカを仕入れる。なぜなら、最も上質な赤身が取れる部位だからだ。

「赤身ならではのねっとりした食感、鉄分を含んだ香りと味の濃さ、それがうちが求めているマグロの旨さです」とは一浩氏。その時々で最高のマグロを仕入れているという自負があるから、江戸前の仕事とはいえ"づけ"にはしない。そういえば「せっかくのマグロをづけにしたんじゃもったいない。香りが飛んじゃうからね」が、先代の口癖だった。香りを大切に思うから熟成もしない。仕入れたそばから使っていくという。

マグロは、祖父の代から豊洲の「石司」一筋。仲卸との信頼関係も上質な寿司だねを仕入れる要だ。写真は大間で捕れた166kgの本マグロの赤身。ハガシの上の部分で、中トロのような味わいがある。

また、保存を目的に〆る必要がなくなったコハダは〆加減を幾分軽くし、厚焼き卵に入れる魚のすり身はペン玉(はんぺんのたね)に替えることでテクスチャーにふんわり感をプラスする等々、先代がブラッシュアップしてきた寿司だねも多い。その一方、穴子、煮つめ、カンピョウの仕込みなど江戸前寿司の基調であり、地味ながら気の遠くなるほどの手間がかかる仕事も連綿と続けている。どれか一つでも手を抜いてしまえば、それは「㐂寿司」の味ではなくなってしまうからだ。

守るべきものは守り、変えるべきものは変える。たとえ昔ながらの仕事であっても、それが時代の流れや嗜好、食材にそぐわないとあればきっぱりと切り捨てる潔さ。もしくは仕事を変える柔軟性─そんな時代を見極めた取捨選択が、百年の長きにわたりこの「㐂寿司」の暖簾を支えてきた原動力にほかならない。そこには、伝統に培われてきた自らの型がある。だからこそ崩せるのだ。まさに、これこそが、新しい店では太刀打ちできぬ老舗の魅力であり、凄みでもある。

店を見守る先代の写真。

"唐子づけ" ¥800。ピンクの色合いも愛らしい海老おぼろは、芝海老のすり身で作る江戸前の古い仕事。この唐子づけのほか、「㐂寿司」では春子、平貝にもかませて握る。

穴子は、豊洲「山五」から。古い付きあいゆえ「㐂寿司」好みの穴子を熟知。真っ先に取り置いてくれるそう。握る前に炙る店が多いが、ここではそのまま常温で握る。だからなのだろう、ふんわりと柔らかく、口中でとろける。

4代目の油井一浩氏、51歳。一度は別の職についたが、26歳で寿司の道に。30代から先代と並んで寿司を握る。現在は、2つ下の弟の厚二氏、番頭格の山岸利光氏と3人で付け場を守る。

店内には店の歴史を物語る調度品が。

㐂寿司

住:東京都中央区日本橋人形町2-7-13
TEL:03-3666-1682
営:11:45〜14:30、17:00〜21:30(土は〜21:00)
休:日・祝
カウンター12席、テーブル4席、小上がり6席

Photos 岡本 寿 Hisashi Okamoto
Words 森脇慶子 Keiko Moriwaki